アンナプルナ・デヴィ:インド音楽の陰で生きた女性2【Notes from behind a locked door ~閉ざされた扉の奥の記録~】

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こちらの記事の続きです。

Notes from behind a locked door ~閉ざされた扉の奥の記録~ 2

一連の質問を添えて、私は彼女への手紙を送り、その返事を待った。

一か月後、黄色い封筒が私の自宅に届いた。

ダブルスペースの整った書式で、パドマ・ブジャン・Dr.アンナプーナ・デヴィと印刷されたレターヘッドにタイプされた6枚の返信であった。

黒い文字は、とても個人的な代物には見えず、彼女の筆跡さえ隠されたものだと思われた。

「私は、誠に365日を自宅で過ごしており、我が家のドアを訪ねる方々には、私のことを邪魔しないようにとお願いしております。いずれにしろ、私は自宅にて、いたって普通の生活を営んでおります。私が外に出る時は、視力検査や歯科など、本当に必要である時に限っております。」
と、彼女は書き綴った。

彼女の文章はとても簡潔であり、装飾的な言い回しはない。しかし、とても強力な印象であった。まるでスルバハールの音のように、内側で思慮されたようであり、特に父親であるウスタッド・アラウディン・カーンの事を語る時には顕著であった。彼女の人生、そして音楽の聖地であり、幼少期を過ごしたジャバルバーグ近郊の小さな町マイハールについて語る時、「ババ( ウスタッド・アラウディン・カーン )」の名前は常に出てきた。

「私がババの事を思い出す時、常に尊敬、畏怖、愛の念を抱きます。私がとても幼い頃から彼に信頼(surbahar)を持ちました。あなたの演奏する全ての音が、人の魂に触れるものでなければならないと言っていました。彼が教えてくれたことを、瞑想、または祈りとして練習していました。」
と、彼女は記した。

彼女が10歳の時だった。
途切れることなく聞こえてくるタンプーラの音は、父親によって遠ざけられていた。

カーンはそのタンプーラを長女のジャハナラに用意したが、彼女が歌うことを拒否したため悩んでいた。

「彼は私に音楽を教えることに対してジレンマを抱えていました。しかし私は、ダダ(ウスタッド・アリ・アクバル・カーン)へのレッスンを聴いていたため、それを記憶していました。ある日、ババがマーケットに行っている間に、ダダはサロードでレッスンの内容を練習していました。ダダが突然間違えて演奏したので、私がそれを正し始めました。私はそれに熱中していたので、ババが帰宅したことに気が付けませんでした。私は、急に彼の存在に気が付きました。彼は私の真後ろに立っていたのです。すごく怖かった。」

彼女は書きました。

「しかし、私に説教をする代わりに、ババは彼の部屋に私を招き、タンプーラをくれたのです。それが私の学習の始まりでした。」

カーンは「厳格な純粋主義者であり完璧主義者」である。激しい気性で、気まぐれに癇癪を起こすことで有名であった。最愛の父親というよりは、グル(師)であった。

「私が生徒であった間、一度もババにお気に入りのラーガを訪ねる勇気はなかった。彼は自身の演奏について一度も話すことはありませんでした。私の全ての時間は、私の学習と練習に費やしてきました。」

彼女は綴ります。

「彼が生徒に教える時、音楽を感情で満たすことを勧めませんでした。だから、ダダとラヴィ・シャンカールが同じフレーズを演奏しても違って聞こえるのです。」

—原文はこちらで読めます—

http://archive.indianexpress.com/news/notes-from-behind-a-locked-door/619877/2

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