5章では、4章の最後にふれたカルマの放擲についてさらに説明されています。
ギーターの中では、とても大切な部分です。
箇条書きで5章のまとめ
- サーンキャ(知識)とヨガ(実践)は同等である
- 放擲のヨガは行為のヨガ無しでは達成できない
- 行為をしながら行為への執着を捨てることが放擲のヨガ
- 執着を捨てた人の前では全ては平等。平等の境地はブラフマンの境地
- ブラフマンの境地に留まる人は不滅の幸福を得る
5章で書かれる放擲のヨガとは?
5章では、前の章で触れられた放擲のヨガ(サンニャーサ・ヨガ)について、さらに詳しく説明されています。
まずは、サーンキャ(知識)とヨガ(実践)の関係性から話が始まります。
愚者はサーンキャとヨガとを別個に解くが、賢者はそうは解かない。一方にでも正しく依拠すれば、両方の成果を得る
5章4節
ギャーナヨーガ(知識)の宗派は、経典を勉強して暗記すれば悟りを得れると信じているのでしょうか?
カルマヨーガ(業)の宗派は、良い行いを行いさえすれば解脱出来ると?
どちらも違います。ヨーガにおける知識とは、行為(カルマ)を行うための正しい知識です。
正しい知識によって行為をしなければ意味がありません。
知識と行為は常に一対であるべきものです。
グナの働きによって人は誰でも常に行為を行っているのですから、行為することを放棄することもできません。
「行為の放擲」とは行為への執着を放棄すること。それは「行為のヨーガ」無しには成し得れません。
行為を行うが、それに対する執着が消えた時に時に行為の放擲が起こります。
行為の結果に執着しなくなると、あらゆるものが平等だと考えます。この平等の境地がヨガであり、ブラフマンと一体になった状態です。
その時、蓮が泥水に汚されないように、行為は彼を汚しません。
真理を知る人は、たとえ、見て、聞き、触れ、嗅ぎ、食べ、進み、眠り、呼吸しても「行為をしない」と考えます。
好ましいものを見ても喜ばす、不快なものにも嫌悪を示さない。
その時に本当の常寂が訪れます。
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