インドには、王道の哲学が6つあり、それぞれが深く影響し合っています。
ヨガの哲学について学ぶときに、これらの哲学を無視することはできません。
例えば、バガヴァッド・ギーターはヨガの教典としても知られていますが、ヴェーダンタ学派によって書かれた教典です。
また、ハタヨガの経典は、ヨガスートラの教えを土台にしながらも、タントラ的な要素が強いです。それぞれの哲学の分類に目を向けることは、哲学を勉強するうえでとても大切です。
いつか各学派の比較をしっかりまとめたいのですが、今回はヨガ哲学を勉強する上で重要な部分をグルジと話したので書き留めたいと思います。
全てのインド哲学の発祥は苦しみとの対話
インド哲学を理解する上で最初に理解しなくてはいけないのは、
「苦しみから抜け出すにはどうしたら良いのか?」という問いに対する答え探しがインド哲学であるということです。
現在ヨガを行う人は、「もっと幸せに・快適に生きる方法」としてヨガを求めるかもしれませんが、歴史的にヨガを含むインドの哲学は全て、「苦しみ」に向けて考えられたものです。
それを理解していないと、教典を読んでもピンとこないかもしれません。
人生で起こる問題の3種類
私が考えなくてはいけない問題には3種類あります。
1・自然が解消するもの
自然の仕組みで起こり、自然のしくみによって解決される悩み。
例えば、妊娠中の女性にとって、お腹の中の子供の食事については考えなくていい問題です。人間の身体の仕組みで、自動的に胎児に栄養が送られます。
農家の人にとって、雨は自分ではコントロールすることができないことであるように、自分では変えることができない、自然の摂理によってのみ解決される問題がここに含まれます。
2・他人が解決してくれるもの
ブッダを例に考えます。
彼は、王家に生まれた王子であったため、食事も、身の回りの世話も、全て周りの人がやってくれました。本人が望もうが、望まなかろうが、彼の出生によって、周りの人が生きるのに不自由しないようにと助けてくれました。
3・スピリチュアルな問題
ブッダのように、権力がどれだけあって、周りの人ができる限り助けてくれる立場であっても、決して解決できない問題がありました。
それは、人は病気をしたり、いつか死を迎えないといけない、または、大切な人との別れなどです。
これらは、権力やお金では解決できないとブッダは気が付きました。そして、その解決法を求めて、王子の立場を捨てて修行僧となりました。
ヨガを含むインド哲学は、人間が物質的に逃げることのできない苦悩の解決を求めて発祥しました。
これらの苦悩は、誰も周りの人が解決してくれない、自分自身で解決いなくてはいけない問題です。
サーンキャ哲学の考える苦悩の原因
サーンキャ哲学は、インド哲学の中でももっとも古い学派です。
ヴェーダンタやヨガ、ジャイナ教や仏教もサーンキャ哲学を参考にしています。
サーンキャ哲学では「無知こそが苦しみを作り出す原因」と考えます。
私たちの苦しみには3種類あると考えられます。
・未来が分からない苦しみ
まだ来ていない未来に対する不安。 未来に対する恐怖感は大きな苦しみです。お金が無くなったらつらいのは、この後、どのように生活したらいいのか分からないからです。「お先真っ暗だ!」と思っているその瞬間は安全な場所にいたとしても、心は大きな不安で支配されています。
・目的が分からない
自分自身が何をしたらいいのか、どこに向かえばいいのか分からない状態も、大きな不安となります。
・自然の作り出す人生(ダルマ)を変えようとする
インド哲学では、全てのものはカルマ(過去の行為による原因)によって作られると考えられています。そのため、生まれた時から、すでにその人ごとの自然の摂理に従った人生が決まっています。
大きな枠でいえば、生まれた人にとって、死ぬことは必定。それに逆らおうと考えると、大きな苦しみが生まれます。
これらの苦しみを解決するには
上記の苦しみは全て、人間の思考が作り出すものです。
つまり、心を変えることによって解決することができるのですが、それには2つの方法があります。
- 超越的な経験をする
- 師からの教えを聞く
超越的な経験とは、ヨガにおけるサマディ(三昧)などのように、人間の通常の思考意識を超越した状態を経験することです。
もしくは、正しい知識によっても解決されます。苦しみは真実を知らない無知から生まれると考えられているため、師から学んだり、教典を深く理解することでも苦の根源が消え去るとされます。
ヨガ・スートラにおける苦悩の原因
ヨガスートラにおけるすべての苦の原因は見るものと見られるものの結合です。
見るものと見られるものとの結合こそが、除去すべき苦の原因である。
ヨガ・スートラ2章17節
ヴェーダンタ学派などにおいて、世の中の全ての根源はブラフマンですが、ヨガ・スートラでは絶対的な創造主としての神の存在が認められていませんので、全て理論的に説明されています。
見るものとは、自己の本質であるプルシャ。
見られるものとは、物質の根源であるプラクリティ。
ヨガでは本当の自分はプルシャであっても、プラクリティの作り出す物質世界も真実であると考えます。全てのものはマーヤー(幻)と考えるヴェーダンタ学派とは考え方が違います。
そのため、私たちは、現実世界と向き合わなくてはいけません。ヨガは、何かから逃げたり、嫌なものを隠すツールではありません。
「なぜ?」ではなくて「どうやって」を考える
仏教やヨガは、「どうやって苦しむから解放されるか」について考える哲学です。
サーンキャ学派などは、理論を突き詰めることで開放があると考えられていますが、ヨガや仏教では、未来の苦を取り除くための方法であり、実践に重きを置いています。
苦しみは、過去のカルマによって引き起こされると考えられています。
ヨガ哲学では、苦しみから解放されるために、苦しみの原因を理解することが大切です。
しかし、「いったいいつを起源に」と考え続けることは意味がないと考えます。
大切なことは、これから新たな苦しみを生みださず、過去に生みだされた苦しみを解消する方法です。
ヨガでも、たくさんの理論を学びますが、それは全て、未来を良くするものであるべきです。
コメント