2章で世の中の真理について説いたクリシュナですが、3章では具体的に人間が行う行為について話しています。
箇条書きで3章のまとめ
- 世の中にはサーンキャヨガ(知識)の立場とカルマヨガ(行為)の立場がある
- 全ての人間は行為を必ずし続けている
- 全ての行為を神への祭祀としてなすべき
- 行為の結果に執着してはいけない。成功と失敗は平等
3章で説かれる行為のヨガ
行為のヨーガ(カルマヨーガ)とはどういうものなのでしょうか?
「良い行いをすることがカルマヨーガ?」と思いがちですよね。
パタンジャリのヨーガ・スートラでは次のような一節があります。
ヨーギーの業は白くも黒くもない。その他の人々の業は三様である。
ヨガスートラ4章7節
これはバガヴァット・ギータの2章の内容に似ています。白い業とは良い行い、黒い業は悪い行い、そしてその中間があります。しかし、ヨーギン(ヨガ実践者)の業は何の結果も作り出さないため、どれにも当てはまらないのです。
どうしてヨーギンの業は無色なのでしょうか。ヨガ実践者は行為の結果に執着がないため、彼らの行為によっては、どの様な業も生まれないからです。
カルマは「業」と訳されます。現世で業を作ってしまうと、その業を解消する為に来世にもう一度生まれて、輪廻が続いてしまうという考え方がインドにあります。
輪廻転生はインドの哲学の土台になる考え方です。
インドに現存するあるヨガの団体では、カルマを作り出さない為に、人里離れた森の中で何もしない生活を行っています。それによって、輪廻からの解脱が得られると信じているからです。
しかし、クリシュナの唱えるカルマとは違います。
クリシュナは、行為を行いながら、行為の結果への執着を完全に無くすように指導します。
自己が肉体を持った時、3つの物資的要素(グナ)に支配されます。
私たちは人間として生まれた限り、プラクリティ(根本原理)のグナによって、必ず行為を生み出してしまいます。
一瞬の間でも行為をしないでいる人は誰もいません。私たちはグナによって行為をさせられているのです。
知識ある人でも行為を行います。自分の本性(プラクリティ)にふさわしい行為を行うのです。
万物はその本性に従う。クリシュナ(絶対神の今世での姿)でも行為をします。
しかし、全ての行為を神のもとに放擲して行わなければなりません。放擲とは、行為を行わないことではなく、その行為が「自分のもの」だという思い込みをなすです。
神への儀式の残り物を食べる善人は、全ての罪悪から解放される。
バガヴァットギータ3章13節
全ての行いを、神へ捧げます。それが良い結果であろうと、悪い結果であろうと、それを素直に受け入れることで執着が無くなります。
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