サーンキャ哲学はインドで最も古い哲学の一つです。ヨガの教典である「ヨガ・スートラ」がサーンキャ哲学を土台に説かれているので、ヨガを勉強する人にとって馴染みの深い哲学です。
先日、私の哲学の先生からサーンキャ哲学についての講義を受けて、とても内容が分かりやすかったので、まとめてみたいと思います。
サーンキャ哲学とは?言葉の語源
サーンキャとはサンスクリット語で「数字」を意味します。
そのため、サーンキャ哲学を日本語で数論と呼ぶことがあります。
どうしてサーンキャ哲学が数論と呼ばれるようになったのかというと、サーンキャ哲学では、世界の全てをたった25個の要素に分類するからです。
同じインド哲学でも、ニヤーヤ哲学などでは、世界のあらゆる要素をもっと詳しく解説します。しかし、サーンキャでは、世界の全てを詳細に理解するのは不可能だと考えました。
例えば医学ドクターについて考えると。医師になる前には、医者は専門家であり何でも知っていると思っています。しかし、大学を卒業するころには、自分は何も知らないと考えるようになります。
眼科が専門だとしても、眼についてさえ全く知らないことばかり。さらに、神経について、骨について、脳について、どれだけ勉強しても、自分は基本の一部をかじっただけで、本当は何一つ分からないのだと気が付いてしまいます。
そのような絶望は、医学に関わらず、どのような学問を学んでいても対面します。
サーンキャ哲学では世界をできるだけシンプルに説きました。
その結果、世界はたった25の要素から構成されていて、25つの要素さえ理解できれば、世界の全てが理解できるという答えに行きつきました。
サーンキャ哲学の説く3つの苦しみ
サーンキャ哲学に限らず、インド哲学全般ができた要因は「苦しみからの解放」という目的があったからです。人々は生まれてしまった時点で、苦しみを背負うと考えられています。
サーンキャ哲学では、苦しみを3つの種類に分けました。
3種類の苦しみ
- adhyatmika:自分自身の身体や心が原因で起こる苦しみ
- adhibhautika:自分以外の誰かや外の環境で起こる苦しみ
- adhidaivika:自然の超越的な力による苦しみ
1の苦しみは、自分自身の行いや考え方を変えることによって回避できます。例えば、拒食症で悩んでいるのであれば、つらくても自分自身の心を整えることでしか解決しません。しかし、自分のふるまいによって必ず解放されることができます。
2の苦しみは周りの環境によって巻き起こされます。例えば、母親との関係が上手くいっていなくて悩む人は多いです。幼少期には自分で変化を起こすことは難しいですが、大人になった時に冷静に向き合えば、人間関係は改善されることが多いです。また、職場の上司によって常に不利益がもたらされるなどの問題などの場合、自分が職場を変えるなどの対処法があります。2の苦痛も、自分の行いによって変えられる場合が多いです。
しかし、3の自然による苦痛は私たち自分自身では回避できません。例えば、津波や地震災害。どれだけ私たちが日ごろから防災対策をして、健康に気を付けていても、全てが無駄になってしまいますね。
このようにサーンキャ哲学では、自分自身で解決できる苦痛について説き、同時に、生をもって生まれた人間には逃げることのできない苦痛があることを説きます。
全てのものは、すでに存在している
サーンキャ哲学では、私たちが目にするものはすでに存在しているものだと考えます。
例えば、果物。木からマンゴーが育つのは、土の中にマンゴーの種を植えた時に、すでにマンゴーの実の要因が種の中に潜在的に含まれていたと考えられます。
マンゴーの種からリンゴやオレンジの実が鳴らないように、鶏の卵から犬が生まれないように、結果を生むためにはそれぞれに必要な潜在因子が必要です。
このように、私たちが人生で目にするものは全て、すでに原因が存在していたと考えるのがサーンキャ哲学の特徴です。偶然起こったように見えるものでも、必ず原因があると信じられています。
この世に現れる全ての現象に原因があるのならば...
苦痛の原因を知ることで、苦痛を回避することができるとサーンキャ哲学では考えました。
自分の望む結果のためには行動が必要
例えば、私たちがバターが欲しければ...必ずミルクを用意する必要があります。バターが欲しいのに、紅茶を用意してもバターにはなりませんね。
そのように、物質世界でのある成果をあげたければ、それにあった原因が必要であるという意味で、サーンキャ哲学はとても論理的な哲学です。
ヴェーダンタ哲学との違い
結果のためには必ず原因が必要という部分では、ヴェーダンタ哲学とサーンキャ哲学は共通しています。しかしヴェーダンタ哲学では、この世に現れた物質的なものは全てイリュージョン(幻・マーヤー)であると説きます。
なぜならば、ヴェーダンタ哲学では唯一の真実はブラフマンのみであると考えるからです。
一方、サーンキャ哲学では、無常である物質的なものも全て現実だと説きます。なぜならば、サーンキャ哲学では、真我であるプルシャも物質の根本であるプラクリティもどちらも真実だと考えるからです。
全てはプラクリティで作られる
サーンキャ哲学では、この世で目にすることの全てはプラクリティと呼ばれる3つのグナ(性質)の組み合わせでできていると考えられています。
【3つのグナ】
- サットバ:純粋さ
- ラジャス:動き・アクティブさ
- タマス:濁り・暗さ
全てのものはこの3つの組み合わせでできあがっています。100のサットバも無ければ、100%のタマスもありません。
例えばキャンドルについて考えるとします。キャンドルの土台の部分は重たく濁った固形であるためタマスです。燃えている炎の活動はラジャス、そして、そこから現れた光はサットバです。
このように、3つのグナは常に組み合わさることによって無限の性質を持った物質へと変化します。
もし、私たちの心が100%のタマスであれば、サットバ性の幸せに到達できません。逆に、聖者だからと言っても100%のサットバであれば、人間としての人生を送ることができません。
私たちは、常に3つのグナを受け入れて、できるだけ心地いい状態を目指します。
プラクリティによって作られるものは常に姿を変化させられますが、プラクリティは不滅のものです。
私たちの真実はプルシャ
プラクリティだけでは人は存在できません、プルシャ(真我)と呼ばれる霊性が私たちの内側に宿っています。
ヴェーダンタ哲学のアートマン(この根源)と比較されることが多いですが、たった一つ違いがあります。
ヴェーダンタ哲学では、アートマンはブラフマン(宇宙の根源)であると説くが、サーンキャ哲学では、プルシャは初めからプルシャでしかありません。
そのため、サーンキャ哲学では、生命の数だけプルシャが存在すると考えられます。これはインドの哲学の中でも、サーンキャ哲学の大きな特徴です。
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